1、根底にある想い

明治時代の話ですが、私の祖先に関寛斎という人物がいます。北海道の陸別という場所に理想郷を創ろうと70歳をすぎてから私財をつぎこみ開拓事業を始めました。農場を解放して小作民を自作農にしたいという夢は、アメリカ式の大農場をつくりたい息子と経営方針で対立し、追い詰められた本人は志半ばで自決してしまいます。明治天皇が崩御した年でした。

私は一度、祖先を訪ねて真冬の陸別の街に出かけたことがあります。そこは寒いというより痛い感覚。今日は暖かいほうだと言われ温度計を見たらマイナス20度を超えていました。この過酷な環境の中でクワひとつで開墾に乗り出した精神にぞくぞくするほど感銘すると同時に、目の前でキラキラ輝くダイアモンドダストと足元のパウダースノウが美しすぎて、否応でも自然の脅威と美が同居する官能的なこの場所にずっと居たいと思ったことを思い出しました。

時代は変わり、大正生まれの私の祖父は、若い頃から政治家になりたいと思っていました。しかし、おぼっちゃま育ちで温厚な性格の祖父が政治の世界で立ち回れるはずはなく、結局サラリーマンで生涯を終えるのでした。祖父が生きていた頃、私が学校から帰るといつもテレビで国会中継が流れていました。居間のこたつでは良く政治談義をしたものです。なぜ祖父は政治家になりたかったのか?その想いを直接聞いた事はありませんが、きっと祖父が大学時代に学んだイギリスの哲学者「アダムスミス」の思想の影響があったのだと思います。経済と道徳を融合し、理想の社会を創る。少なくともそういった哲学を日常の中で祖父なりに実践していたのですから、それが祖父の想いだったのでしょう。定年退職してからは民生委員をやり地域のために精力的に活動していました。

そんな祖先や祖父が叶えられなかった理想郷への想いを形を変えてでも私がやりたいという想いがずっと根底にあるのです。

2、経験を生かし人の役に立ちたいとの想い

私は幼い頃、場面緘黙症という病気を患い、幼稚園の頃から10年間ほとんど言葉を発しない時期を過ごしました。親や学校の先生は心配しましたが、学校のクラスメイトは言葉を発しない私を受け入れてくれました。差別や偏見を受けることなく、友達も沢山いて、楽しい日々を過ごしました。言葉を発しなくても、周りが色々と協力してくれたり、何かを伝えたい時は文字に書いたりジェスチャーで示したりと、コミュニケーションで不自由した感覚はありませんでした。この時の経験からコミニュニケーションで「言葉」がそれほど大切な要素ではないという確信に近い感覚を今でも持ち続けているのです。

そして、多様性を受け入れる一人一人の意識と姿勢こそが、差別や偏見を排除し、障がいを持った人が障がいを感じずに社会の一員として活躍できる大きな要素だと思ったのです。

中学に入ると、周りも思春期になりみんな自分のことに関心が向くようになります。私は徐々に学校で居場所を失い、家でも居場所を失い、大きなストレスを抱えるようになりました。私は精神を患い、高校受験を控えた時期に強制的に病院に隔離されました。閉鎖病棟の中の環境は劣悪で、嫌がらせや暴力が蔓延していた場所でした。なぜ自分が入れられたのか、いつ出られるのかも分らず、大切な入試も受けられない。その不安から私は15歳で人生に絶望を感じました。この時の経験はその後の私の人生に大きな影響を与えました。

犯罪を犯したわけでもないのに、説明や同意もなく、まるで拉致するような方法で隔離され長い間拘束を受けたことは、それがたとえ合法的であったとしても大きな人権侵害です。私がこの時受けた大きな傷を乗り越えて克服するには長い年月と生きることを諦めない執念深さが必要でした。

この時の経験が、その後私が子どもの人権問題に取り組むNPO団体で社会人インターンシップとして活動したことや、子どものキャリア教育に取り組むNPO団体で精力的にボランティア活動に取り組むきっかけとなりました。

子どもの人権を守ること。子どもを一人の人間して意志を尊重すること。多様性を認めること。この経験がきっかけで得たものは、今子どもを持つ一人の親としても、子どもとどう向き合うかの大切な指針を与えてくれました。同時に、苦しみから克服する過程で、生きることの意味や、死や人生のあり方について、深く考えることが出来、多くのことに気付くことが出来ました。

病院を出たあと、私は中学浪人をしてその後夜間高校に入りました。人生に希望を失った中でのがむしゃらの努力はかえって心身を痛めつけることになりました。高校を二十歳を過ぎて卒業した後は、燃え尽き症候群のような感覚になり、その後10年近くの間、20代のほとんどを社会に出るとなく引きこもっていました。希望を見出せず、自分の状況に憂い、何をやっても楽しいことなど一つもない。毎日死ぬことばかり考えていた20代でした。

そんな状況を変えたのは、20代も終わりに差し掛かった頃に出会ったサッカーというスポーツでした。それほど興味もなかったサッカー。ある日たまたまテレビで日本代表戦を中継していて、何気なく眺めていたら画面に映っていた鈴木隆行選手のプレーと風貌が強く印象に残りました。彼を実際に見たいという想いでスタジアムに足を運びました。それがきっかけでサッカーを観るようになり、観ていたら自分もボールを蹴りたくなり、好きなことをやりたいという気持ちが少しづつ心と体を家の外に出してくれたのでした。同時に清水の舞台から飛び降りる覚悟でアルバイトを始め、数々の失敗を重ねながら、自分なりにステップアップをしていき、社会へとの繋がりを持つようになっていったのです。

人生に希望を失っている若者の気持ち。引きこもりを経験した当事者からの目線。たとえ希望を失い引きこもっていても生きることさえ諦めなければ、人生がチェンジするきっかけは必ず訪れるということ。そんなことを20代の経験から得たと思っています。

30代はそれまでの失った人生を取り戻すかのように好きなことに打ち込んだ時期でした。お金を貯めては世界各国を旅をし、好きなサッカーでは年齢制限の枠を超えてJリーグのインターンシップの応募して、8年間にわたり試合運営に携わりました。現場ではリーダーを任され最初は無給だったのがそのうち仕事として対価をもらえるようになりました。アフリカはガーナに渡り、ホームステイをしながら現地のサッカースクールに通う子どもたちにサッカーを教えたりもしました。仕事では、土産物屋でのアルバイトが割と長く続いたことがキッカケで、百貨店で富裕層向けのサービス業のポーターになりました。その後イベント会社で広報活動と商業イベント施設の運営管理業務、さらには人材会社で営業職などを経験しました。

様々なことにチャレンジし、駆け抜けた30代でしたが、決して未来への希望を持てていた訳ではなく、自分のキャリアをどう構築していくかが見えず、常に希望と不安が同居した混沌とた時期でした。そんな中でも前に進めたのは、サッカーの存在があったからでした。

チャレンジすることの大切さ。自分がワクワクできる好きなことを見つけることが生きる原動力になること。健康であることの有り難さ。そんなことに気づけた30代でした。

40歳に差し掛かる頃、私は自分の人生を見つめ可能性を見出すために、ほうぼうに学びに行きました。起業スクールに通ったり、話し方教室に入ったり、自分のリソースやあり方を見つけるための講座に足しげく通いながら、様々な人と意見を交わしました。いろいろな場所に通い、学び、知識を得ることで益々わからなくなる感覚に陥った私は、無心になることで本質的に大切なことに気づけるのではないかと思ったのです。そして私は一念発起して自転車で日本縦断の旅をすることにしたのです。3ヶ月に渡る単独での挑戦。それは自らが創り出す風を浴びながら美しい自然を感じる毎日で、心から無心になれた素晴らしい時間となりました。

旅から帰ってきた後、私はすぐに子どものキャリア教育に関わるNPO団体でボランティア活動を始めました。同時に、長年住み慣れた横浜を離れ、海が近い湘南で一人暮らしを始めました。ふらっと出かけたアメリカのセドナで圧倒的な大自然を体験した後、療術の学校に2年間通い、東洋医学と整体の技術を習得しました。NPO団体の活動で知り合った妻と結婚し、新しい家庭を築くために2016年に文京区に移り住み、娘が生まれました。

40代はまだ半ばですが、この40代前半の数年間が今までの人生の中で一番大きな変革期でした。何かを得ようと手当たり次第に外に学びに行ったことでわかったことは、外に答えはないということ。答えは自分自身の中にあること。それには自分の内側を見つめ直すことが大切だと気づきました。自身のあり方を整えて、過去よりも未来より今を大切に一日一日を丁寧に生きることこそが大切だと気づいたのです。

何かを始めるのに遅いということは決してないということ。望みを叶える生き方をするには、何をするかより先にどう在るべきかが大切だということ。育児に携わることの尊さと素晴らしさ。そんなことを学び得た40代前半でした。

今までは人から与えてもらう人生でした。これからは人に与えられる人生でありたいと思いました。今までの経験を人のために最大限に生かすことが、私のこれからの使命なのではないかと感じています。特にひきこもりや、場面性寡黙症に関しては当事者の目線として発信できる強みを持っています。逆境を乗り越えてた経験や、行動力は大きなリソースであります。祖先や祖父の想いと共に、私の今までの経験で感じた様々なことから、その全ての経験や持ってるリソースを活かし人のために役立ちたいという想いがあることが2つ目の理由です。